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【再掲】生臭いラブストーリー

別に女は家を守って炊事洗濯さえやっときゃそれでいいなんていう古い考え方に縛られているつもりはない。僕はただ二人で共有する時間を大事にしながら寄り添うように生きていきたかっただけだ。そして、そんな僕のささやかな願いすらも叶えられないほどに彼女の仕事は忙しすぎたのだったんだ。思えば初めの頃から、彼女は僕とのデートに遅刻することが多かった。別に彼女に悪気があって遅刻しているわけではないのは分かっている。だから僕はいつもそれを笑って許していた。彼女が仕事に傾ける情熱と誇りを正しく理解していた。これは演技でも何でもなく、僕は彼女を純粋な気持ちで応援することができていた。それがいけなかったのかもしれない。やがて、彼女は僕とのデートの約束を破って仕事にかかる時があるようになった。今になって考えると、それがしょっちゅうってわけでは決してなかったしむしろ稀だった。仕事が仕事なだけに、どうしても外せなくなることがそれぐらいの頻度であってもまぁ仕方ないよねくらいだったのかもしれない。というか、そんなことは今更振り返ってみなくても当時から自分でもわかってたけど。それでも割り切れないのが人間、なんて言い方をしてしまう僕はそんなに卑怯な人間だろうか。会うと自然と口論になることが増えた。どんなに彼女と楽しい時間を過ごせるよう心がけても、どういうわけかうまくいかない。全然楽しくない。決して口に出したりすることはなかったが彼女も同じように感じていたのだろう。だろうというか、フラれてしまった今となってはそりゃ確実だ。だけど、その仕事のことさえなければ僕と彼女は趣味も合ったし、お互いという人間をちゃんと認め合うことだって出来たし、ついでに言えば体の相性もよかった。彼女の仕事さえなければ、僕と彼女は全然やり直すことが出来るはずだと僕は今でも断然信じている。だからラッコ殺す。彼女の飼育してるラッコ全部殺す。毒で。

そういうわけで草木も眠る丑三つ時、彼女の勤める水族館に僕は忍者の格好で忍び込んだ。忍者の格好で忍び込んだ、っていうと頭痛が痛いみたいな感じだけどそんなことは決してない。彼女との縒りを戻すためにラッコを殺す。彼女との縒りを戻すためにラッコを殺す。これを達成するためにも、彼女との幸せな日々を取り戻すためにも、正気に戻ったら、負けだ。ある程度この状況に酔う必要がある。冷静になってしまったら僕の心の中の何かが粉々に砕けてしまってもう二度と立ち上がれなくなってしまうような気がする。だから、酔うんだ。まず確実にラッコを殺す。そうしたところでまた彼女と付き合えないってことは薄々わかっているがまず確実に殺す。その後のことはその後考えろ。この忍者の格好はそういう決意の現れなのだ。そうやって自分に言い聞かせてる間にも一方ではドンキホーテで店員に「忍び装束ありますか?」と聞いたことを思い出して「なんで忍び装束とかわざわざ難しい言い方してんの俺。それで格好ついてるつもり?」みたいな自問自答が始まってしまう。駄目だまだまだ酔いが足りない。僕は忍者走りでラッコのプールを目指した。突き出した肘が視界にずっと入ってることって日常あんまりないから「へー、肘ってこんな形してるんだ」とか関節部分の骨がどんな感じになってるのかとか想像してたら肘が肘なのかわからなくなってきてなるべく肘のこと考えるのはやめようという結論に達したがアシカコーナーを横切った瞬間に脊髄で「うわ、アシカって肘ねぇ。」と思ってしまいもう肘のこと考えないのは無理だと気付いた。だけどこの肘を今更下げるわけにはいかない。僕は口の中でシュタタタタタタと言いながら、頭の中で肘という言葉がグルグル回るなか全速力でラッコのプールを目指した。非常灯の薄明かりを吸い込み妖しく光るトンネル水槽の真ん中を真っ黒な馬鹿が一人駆け抜けていった。

ラッコのプールに侵入するためには電子キーのロックを解除する必要があったが、付き合っていた以前からその認証ナンバーが彼女の生年月日であることを知っていたので、僕はあまりにもあっさりと侵入を果たした。気配を殺し僕は水槽へと近づいた。あとはわざわざ業務用のパスタ鍋を通販で購入してタバコから抽出したニコチンをプールに流すだけだ。僕は懐からボルビックのペットボトルに移し替えた毒を取り出した。と、その時だ。ジ、ジジジジジという鈍い音と共に柔らかな照明がプールを照らした。予想外の自体に狼狽している僕の背後でカチリとドアノブの回る音がした。慌てて僕は事前に用意していたラッコのプールの壁と同じ柄の布を纏って壁に張り付いた。そうして現れたのはなんと僕の愛する、あの、彼女だった。彼女の顔を見た瞬間、僕は一瞬正気に戻りかけてヤバかったが今まで目にしたことのなかった作業着姿の彼女と僕が知っている普段着の彼女がなんだか別の存在のようにも思えて、二人の彼女は僕の頭の中でフワフワと近づいたり離れたりを繰り返しているうちに僕はなんとか冷静を取り戻すことができた。どうやら彼女はラッコの餌である貝の殻を一枚一枚剥いてやる作業を始めたようだ。幸い、今のところ僕の存在に気付いている様子はない。黙々と彼女が作業を続けているとチャポンと水の撥ねる音がしたかと思うと、一匹のラッコが彼女に近づいてきて言った。

「やぁ、毎日毎日遅くまで精が出るね。」

「ちょっと、あんたらのためにやってるっていうのに随分な言い方じゃない。明日はご飯いらないの?」

「まぁまぁ、そう怒るなよ。謝るよ。感謝してるってば。」

そんな感じで彼女とそのラッコは世間話を始めてしまった。どうも盗み聞きをしているようで僕は据わりが悪かったのだが身動きをとることもできないので僕はただじっと息を殺して二人の会話を聞くともなく聞いていた。どうやら、というか飼育員とラッコの関係なのだから当たり前といえば当たり前なのだが彼女とそのラッコはずいぶん気心の知れた仲のようで、随分親しげな様子だった。話題といえばもっぱらラッコプール内での揉め事や飼育環境についての不満や要望などが中心で、このラッコは飼育員である彼女とラッコ達とのパイプ役といったポジションのようだ。彼女の仕事に対しての熱心さはずっと知っていた僕だったが、改めてこうしてラッコ達の言い分の一つ一つに耳を傾ける彼女の姿を見ていると素直に尊敬の念が湧いてくるのと同時に、それが原因で別れてしまうこととなった二人の関係に思いを馳せてしまい、僕は何とも言えない複雑な気持ちになってしまった。と、そんなことを考えているとラッコがなんでもないような調子で気になる言葉を口にした。

「まぁ、仕事熱心なのは結構だけどよ、そんな調子だから男に愛想尽かされちまうんだぜ?」

僕は一瞬、ラッコが何を言っているのかわからなかった。愛想を尽かされたのは僕の方だ。彼女はそれを言われて一瞬顔を引きつらせたがすぐに笑顔を作りなおすと「やめてよね」と一言そっけなく返したきりだった。しかし、ラッコはそんな彼女の様子を見てもはぐらかすつもりはないようで彼女が言葉を次ぐのを待つように押し黙った。沈黙が二人と一匹の間に流れた。やがて彼女は目を細めて遠くを見るようにはにかむとゆっくりと口を開いた。

「実は、違うんだ。本当は、逃げちゃったの私。」

そうして彼女は僕にも話してくれなかった本当の別れた理由をラッコに対して語りだした。その内容は要約すると、なんかドラマなんかでもよくある、すれ違いでお互いのことを嫌いになってしまうのが嫌だからその前に別れちゃえみたいな、そこんところを踏まえることができたらめちゃめちゃやり直せそうなお馴染みのやつだった。それを聴きながら僕は、壁と同じ柄の布の裏側で声を殺して涙を流した。本当はうまくしたいのにうまくいかない辛さを抱えていたのは彼女も同じだったんだ。なぜ僕はそれを分かってやろうとしなかったのだろう。楽しい時間を共有したいだけだなんて言っておきながら僕は、本当なら二人で乗り越えなくちゃならない不安や苦しみを共有しようとは思わなかった。それで彼女を独りにして苦しめて、僕は半ば自棄になって楽をしようとして、なんて僕は馬鹿な男なんだろう。悔いた。深く深く悔いた。そして、できることならば彼女ともう一度だけやり直したいと願った。ラッコが言う。

「どうしてそうやって独りで抱え込んじゃうかなぁ。同じ川にいるんだったらさぁ、ただその流れに二人で身を任せていればきっとうまくいくんだよ。簡単なことさ。俺たちラッコでもできることだよ。」

その通りだと思った。ラッコめっちゃいい奴じゃんとも思った。殺そうとしてごめん。

「簡単だけど、難しいんだよ。それに、もう遅いんだよ。」

彼女は僕がいることにも気付かず、壁だと思って僕の方に寄りかかってきた。彼女の体温を感じた。

「遅くなんか、ないよ。」

堪らなくなった僕は思わず呟いた。彼女は一瞬その声がどこから聞こえたのか分からなかったようで辺りを見回したがすぐに声の出どころが壁だと気付くと慌てふためき飛び退いた。久しぶりに見た彼女のそそっかしい仕草に顔をほころばせながら、僕は構えていた布をおろした。僕の顔を見るなり彼女は顔をクシャクシャにして僕の胸に飛び込んできた。僕もそれをうまく受け止めて彼女を抱きしめてやろうとしたがあまりの勢いによろめくと何かにけっつまずいてしまいそのまま二人で後ろに倒れこんだ。さすがにドラマのようにかっこよくはいかない。なんだかそれすらもおかしくて、二人は照れ臭そうに笑いあった。見ると、僕の足には鎖が引っかかっていた。何だろうと思い鎖の先を目で追うとそれはラッコ達のいるプールの方へと伸びていて、プールでは大きな渦が巻き起こっていた。何がなにやら分からずに僕と彼女が呆然と眺めているうちにも水かさはどんどんと減っていき最終的にはそこで飼われていた9匹のラッコも吸い込まれていってしまいあとには静寂しか残らなかった。

涙を目に溜めた彼女は怒りを露にして僕を睨みつけたが、僕は、そもそもこんな風呂みたいなシステムになってる水槽がおかしいしマグカップの口くらいの排水溝に吸い込まれるラッコの方もどうかしてるしそれで俺が悪いなんてむちゃくちゃだと思ったけど、さっき普通にラッコ喋ってたしそれはすんなり認めて排水溝に吸い込まれるのはナンセンスだって言うのもなんだかおかしな話だなとかも思って、とりあえず、「別にお前が剥いてやらなくてもラッコは貝くらい自分で割るだろ」とめちゃめちゃな言い訳をした。