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【再掲】ハナコとノリちゃん

味で勝負の本格ラーメン店「はにかみノリちゃん」のバイトの面接に訪れた田中ハナコはチンパンジーだった。この手のラーメン屋にありがちな実際には全然ちゃん付けで呼ばれてないであろうハゲ店主はひとまずハナコを厨房裏の休憩スペースに招き入れ、パイプ椅子に座らせた。ラーメンを作るしか能がない俺がここまでやってこれたのは、たくさんの人々の愛情があったからだ。そう考えるノリちゃんは絶対に人を見た目で判断したりしないのだ。その考えはたとえ猿が相手でも変わらねぇ。まずしっかりと己の目でこの猿の適正を見極め、そのうえで落とすんだ! これがノリちゃんの考えだった。

チンパンジーは壁掛け時計をじっと見つめ秒針の音に全神経を集中させている。なぜかというともちろん何となく興味が沸いたからだ。

「それでは、面接の方を始めたいと思います。」

ノリちゃんの目が光った。チンパンジーはその声に反応して面接官の方に顔を向けたが依然として壁掛け時計を横目で眺め続けていた。なぜかというと何かずっとカチカチ言ってるからだ。

かくしてチンパンジーのバイトの面接は始まった。

 

「お電話の際に当日は履歴書を持ってくるよう伝えていたと思うんですが。」

何故か人間相手に面接する時にも使ったことのない丁寧語でノリちゃんは尋ねた。ここが第一関門だ。そもそもチンパンジーが喋るわけないんだから電話を寄越してきたのは誰だったのかって言うかせめて付き添いに来いよ馬鹿野郎、とノリちゃんは一瞬考えたが、ともあれここで履歴書を持っていなかったらこの猿は不採用だ。採用側の人間にとっては面接希望者がどのような人間なのかなんて全くわからないところから面接はスタートするのだ。かと言って面接に長々と時間を費やすわけにはいかない。本来の職務があるのだ。仕込みがあるのだ。そこで重要になってくるのが履歴書、履歴書こそ面接を効率よく進めるための必須アイテム、それが用意できなければ不採用なのは当たり前だ。

既にノリちゃんの思考回路は常識からもラーメン屋の頑固親父のレールからも完全に脱線していた。理由もなく頭ごなしにチンパンジーを不採用にしちゃいけねぇ、というノリちゃんの過剰な男気がノリちゃんの思考を蝕み始めているのだ。

さあ、履歴書だ! 出せるものなら出してみろ、猿め! 出さないのか! 出さないんだな! ならば不採用だぞ! 不採用でいいんだな! 押し黙ったノリちゃんの熱い視線にようやく気付いたチンパンジーはウエストポーチに手をかけた。ノリちゃんは目を剥いた。まさか出すのか、まさかそのウエストポーチから出てくるのか、履歴書が! そのまさかだった。チンパンジーはウエストポーチの中から小さく折り畳まれた履歴書を取り出すと歯を剥きながらノリちゃんに手渡した。チンパンジーが人間にじっと見られている時は、たいてい何かを期待されている時なのだ。チンパンジーのハナコはそれまでの経験からそれを十分に理解していたのだ。そして、そんな時は歯を出してテキトーに相手してやればいい、ということも。

「それでは、拝見させてもらいます。」

唇をわなわなと震わせながらノリちゃんは履歴書を丁寧に開いた。田中ハナコ、満6歳、女、住所は割りかし近所のようで通勤時間は徒歩で10分、自転車で5分、とある。ノリちゃんは戦慄した。この猿、まさか自転車に乗れるのか?

ノリちゃんは履歴書を握りしめて立ち上がると表口に向かって駆け出した。あまりに慌てていたため、つっかけが片方脱げたことにも気を留めず表に飛び出したノリちゃんは、店の駐車場の脇に停まっていた小学生用の自転車を前に膝から崩れ落ちて呟いた。

「補助輪すらありゃしねえ……。」

補助輪なしで自転車に乗れるくらい賢い猿なら、もしかしてホールくらいできるのではないだろうか。そんなことを考えながら片手につっかけ、もう片手に履歴書を持ったノリちゃんはハナコの待つ厨房裏へと戻った。そこでノリちゃんが見たものは誰に命令されたわけでもないのにパイプ椅子にじっと座ったままのハナコだった。なんて、なんてお利口なんだ! ノリちゃんは認めざるをえなかった。この猿はちゃんと働けるかもしれねえ! 学歴の欄が白紙だからって何だ! 俺だって中卒じゃねえか! この履歴書も本当のところは誰か人間が書いてやったものに決まってる! しかし、猿にそこまで要求してどうする! 俺だって三角関数なんてちんぷんかんぷんじゃないか! こいつは、ハナコは、自分にできる精一杯を俺に見せてくれているじゃないか!

「立て、お前が本物かどうか、もう少し試させてもらう。」

人間が見下ろして何か言ってきたのでたぶん何か芸をやらされるんだろうな、と察したハナコはもう少し時計の針を見ていたかったが仕方なく椅子から立ち上がった。

 

本来ならとっくに仕込みをしないといけない時間だったが、実践形式のハナコの面接が始まった。バナナを買ってきたノリちゃんは最初にテーブルの番号をハナコに教えた。バナナを買ってきたのはもちろんハナコが少しでも数字を理解する助けになれば、と思ってのことだった。しかしそれは杞憂であった。ハナコは既に20までの数字は完璧に理解していたのだ。これはもしかしてもしかすると、ノリちゃんは思った。しかしこの先が問題であった。果たして猿であるハナコに味噌ラーメンと醤油ラーメンの違いがわかるのか? それができたとしてもネギ味噌ラーメンとコーンバター味噌ラーメンの違いがわかるのか? こりゃハナコの採用と不採用を分ける正念場になりそうだ。ノリちゃんは緊張で手が汗ばむのを感じた。しかし、これも杞憂であった。「はにかみノリちゃん」は全部カウンター席だったのだ。今までだってもともと客は厨房のノリちゃんに向かって注文を叫んでいた。それを受けてノリちゃんが作ったラーメンを「○○番さん、お待ち!」とテーブルに上げたラーメンを正しい番号の席に運べればハナコはそれでよかったのである。そしてハナコはそれを見事にやってのけた。

「合格だ、ハナコ!」

ノリちゃんは叫んだ。ハナコはとりあえず歯を剥いた。

 

しかし、実際に雇うことに決めたノリちゃんは内心あせっていた。おいおい合格しちゃったよ。いいのか? 本当にいいのか? だって猿だぞ。いや、この考えがいけねぇ。ハナコはちゃんとやってくれるじゃねえか。俺の目でちゃんと見たじゃねえか。いや、でもやっぱりおかしくないか? どこで間違ったんだ? いや、間違ってねえ。間違ってねえはずなんだけど。いいのか、本当にこれでいいのか? いや、もう考えても無駄だ。後にはひけねぇ。雇うぞ、俺は猿を雇うぞ。

 

と、ガラガラと表の戸が開く音がした。

そこに立っていたのはノリちゃんの女房だった。

営業の準備が全くできていない店内を見渡した女房はひとまず叫んだ。

「あんたぁ、なんで店に猿なんかがいるんだい! 今すぐ追い出しな! さっさと店開けるよ!」

猿なんか。力強い語気で女房の口から発されたその言葉を聞いたノリちゃんは今にも目からこぼれ落ちそうな涙を拭いながら、叫んだ。

「ありがとう、かあちゃん!」

 

こうして不採用になったハナコは履歴書の住所に書かれた家までノリちゃんに送ってもらった。ウエストポーチの中にはお土産のバナナがいっぱいに詰まっている。道中、ハナコと手をつないで歩くノリちゃんは嬉しそうにハナコに語り続けた。

「いいか、ハナコ、ラーメン屋をなめちゃいけねえ、猿なんかにゃ務まらねえんだ。そもそもラーメンってのも奥が深くてなぁ……。」

無事にハナコを送り届けたノリちゃんはハナコと別れるのを少し名残惜しく感じた。しかし、俺は早く店に戻らなくちゃならねぇ。母ちゃんが一人で頑張ってんだ。あいつ一人で店が回るわけがねぇ。

きっと今日はノリちゃんが風呂掃除をしなくてはならないだろう。